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MONO代表・土田英生のブログです

2016年11月06日

種類は変われど。

 奈良にいる。
 けれどホテルから出ていないので、全く奈良を味わっていない。
 ずっと台本を書いていた。
 人のコンプレクックスや悩みに関する台詞を書きながら苦しくなった。なのでやめることにした。
 明日も早いので、そろそろ眠らないといけない。
 
 昨日、偶然のことだったけど、ある女優さんと呑むことになった。
 20代で随分と活躍をしている。きっと、これからもっと世間にも認知されて行くだろう。
 外から見ていると順調そのものだ。
 けれど、彼女は自分のコンプレックスとか悩みを話していた。私はそれを聞きながら、懸命に励ました。
 
 どうでもいいけど、あの店、美味しかったな……。

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 いや、それはいいや。

 けれど、いつまでたってもそんなに楽にはならないんだよね。
 自分との付き合い方は上手になるけど、本質的なところはきっと変わらないんだと思う。
 確かに、私も20代の頃はコンプレックスの塊だった。
 まずは生活。
 勢いで演劇を始めたものの全く生活ができない。
 居酒屋、お蕎麦屋さん、会社の事務、いろんなバイトをしたけどすぐに休んでしまう。そしてやめてしまう。
 だから常にお金がなかった。
 昼過ぎに起き、食べるものもなく、「ああ、俺は社会のクズだ」とよく思った。
 同級生が結婚をして式に招待されても、ちゃんとした服がないわ、ご祝儀も皆のように出せないわ。本当、みんなに申し訳なかったし、恥ずかしかった。
 とにかく生活は悲惨だったのだ。
 母親がこっそり送ってくれたダンボールを開けると、そこに入っているのはマヨネーズやジャム。
 つけるものがない。パンもなければ野菜もないのだ。
 さすがに母親もそこまでだとは思っていなかったのだろう。
 マヨネーズをそのままチューブから吸ったりした。宇宙食かと思った。
 ジャムもそのまま食べたね。
 鈴虫だった。
 家賃も9ヶ月溜めたことがある。
 一ヶ月、肉体労働をして払った時には、「祝」と書かれたビールを大家さんがくれた。
 なんの祝いだったんだろう?
 
 親にもよくお金を借りた。
 ちょうど、その頃、日本劇作家協会ができ、入会しようと誘われた。
 年会費は1万2千円。
 それを母親に無心した。
 と、母親は自分のカードで振り込んでしまい、

『英生、どうしよう? お母さんの名前で振り込んじゃったがね』

 と、電話があった。
 そうなのだ。うちの母親は私よりも先に劇作家協会に入会してしまったのだ。
 後日、事務局にその訂正の電話をしたのだが、とても恥ずかしかったのを覚えている。

 けれど劇団だけは真面目にやっていた気がする。
 一緒にやっていた水沼君も私と似たり寄ったりだった。
 だからいつも一緒にいた。一緒にいてもお互いにお金がない。
 ただ、歩き、そしてよく喋った。
 いつか食えるようになるかなあと、夢のような話ばかりしていた気がする。

 アルバイトをやめたのは29歳の時だった。
 何のきっかけでというのは覚えていない。
 ただ、その頃、急に環境が変わったのは確かだった。

 そのちょっと前、劇団の公演では突然お客さんが増えた。
 忘れられないのは『約三十の嘘』という舞台の時だ。
 初日からお客さんがたくさんきた。その頃は日時指定でもなかったので、偶然、お客さんが初日に偏ったのだと思った。けれど、二日目も三日目もお客さんは入った。
 そしてそれからしばらくして、『─初恋』という芝居を創った時だ。
 関係者と言われる人が、次々に楽屋にやってきた。
 そして台本を書いてくれと言われたのだった。

 まず、マキノノゾミさんから連絡をもらった。そして今はなくなったが、劇団M.O.P.に戯曲を書いてくれと頼まれたのだ。『遠州の葬儀屋』という作品を書いた。
 それが私が人に頼まれて書いた最初の台本だ。
 だから今でも私はマキノさんに会うたびに、心の中で深く頭を下げている。

 ほぼ、同時期にG2プロデュースに『いつわりとクロワッサン』、そしてパルコプロデュースに『BOYS TIME』、劇団青年座に『悔しい女』、文学座に『崩れた石垣、のぼる鮭たち』と立て続けに台本を書かせてもらった。草𦿶剛さんの朗読劇も作演出させてもらったし、本も出した。続けて初めての連ドラ脚本『天才! 柳沢教授の生活』をやらせてもらった。
 全て二、三年の間のことだ。
 よく全部やったなあと思う。
 そして、MONOも『きゅうりの花』という作品で利賀のフェスティバルに呼んでもらい、東京公演も毎回するようになった。

 生活は安定したが、この頃の私は別のコンプレックスで苦しかった。
 自分に才能があるとはどうしても思えなかった。
 私の周りには面白い人がたくさんいたのだ。
 仲のよかった松田正隆さんと鈴江俊郎さんは岸田戯曲賞を同時受賞した。続いて深津君も受賞した。私はどの賞の最終候補にも残らなかった。マキノさんは全国で活躍していたし、一緒にコントをやっていた故林広志君の書くものは本当に面白いし……。
 だからテレビで頑張ろうとドラマも一生懸命書いたが、なかなか視聴率も振るわない。
 いくら仕事をしても、どこかで私は『ズル』をしているような気分だった。
 本当は才能ないのに、みんなは気づかずに仕事をくれている……いつか化けの皮が剥がれてしまう。

 そういう時、ずっと支えになっていたのが劇団の存在だった。
 彼らは全然変わらなかった。
 
 ある時、稽古中に私は泣き出したことがある。
 皆は稽古をやめて、こっちを見ている。
 私は言った。

『なんでこんな才能のない俺と一緒にやってるの?』

 その日は、またしても戯曲賞の最終候補に残らなかったと分かった日だったのだ。
 メンバーは何も言わなかった。
 ただ、稽古しようよ、と言った。

 そうしたコンプレックスからいつ頃解放されたのか?
 多分、ロンドンに留学したのがきっかけだったと思う。
 
 で、現在。
 悩みがないかといえば……悩みだらけだ。
 種類は変われど、常に自分の心は晴れない。
 けれど、これはきっとずっと続くんだよね。
 そして、今抱えている問題は……書けないね、やっぱり。
 終わったことだと笑い話にできるんだけどね。
 
 寝よう。
posted by 土田英生 at 00:29| 奈良 ☁| 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする